孤独な心

家庭内での虐待の経験、身体障害、の両方を持つ人のブログ

私という人間

寝れないので自分を落ち着かせるためにも書くことにする。またSNSで荒れたら人が離れて声をかけられる可能性が更に下がってしまうからね。

 

さて、まあ以前にも書いたようなタイトルだが、まあ内容は多少違うと思う。

 

っていうかいま検索してみたらほぼほぼタイトルまで同じだった、というわけでタイトルも変更し書き方も変えてみようと思う。

 

なんで自分はこんなに違うんだろう。他の人の事が分からない。なんで明るいんだろう。そしてなんで私と明るく話そうとしてくるんだろう。私はそんな風に話したくないのに。どうしても合わせてしまう。

 

他の人の目に、心に、私の苦しみは悲しみは寂しさは嘆きは憎しみは怒りは絶望は映っているのだろうか。

 

明るく話されるのは嫌いだ。なんでお前そんなくだらないことで悩んでんの馬鹿じゃないの?って暗に言われている気がするからだ。私は明るくされるのが大嫌いだ。自分の悲しみを苦しみを否定され嘲笑われ踏みにじられているように感じるから。

 

私は精神病を患っていない。おそらくは。そう鬱とかなんとか、そういうものはまったくない。というかもしあったら私はこの世に居ないだろう。親に殺されてもおかしくはない。

 

少しでも変な事を言ったりやったりしたらすぐに暴力だ。だから私は自己コントロールに己の全てを費やしたのだと思っている。全ては親の暴言暴力から少しでも逃れるために。そしてその代償として、喜びや楽しみを感じる心が無くなっていった。

 

私の苦しみは悲しみは寂しさは嘆きは憎しみは怒りは絶望は、とは言ったけれど、正直そんなに強いものじゃない。しかしそれは常にあって、無くなることはなくて。怒りや憎しみは想像や空想の中で爆発する。人を殺す想像を私は何回やっただろう。

 

私の心は平坦だ。文章にもそれが表れている。谷の部分を山の部分で埋める…私はそんな風にずっと生きてきた。だから嬉しいことがあってもあまり表現することは無かった。

 

私は広がった漠然とした負の感情をずっと持ち続けている。心の中にはそれしかない。私にとって明るいものは不快なものだ。でもリアルでは明るいし、SNSでもそれなりには明るい。他人に合わせているのだろうか。

 

はっきり言おう。私の方が辛いのだ。精神病を患っていても笑っている人間は多い。楽しいひと時を持つ人間は多い。私はそれが無い。というか、私の世界にそういうものは存在しない。

 

だから、生きていて楽しいと思った事はないし、何がそんなに楽しいのか嬉しいのか笑えるのか、私にはわからない。

 

私の目に映るのは辛く生きる姿だけである。学校の成績に追われ入試に追われ就職に追われ金稼ぎに追われ…追われ続けるのが人間の生きている有様だと私は小学生相当の年齢の頃から思っていた。なぜみんなそんな人生を生きているんだろう、どうしてもっと自殺しないんだろう…というのは中学生相当の頃?から思っていたように思う。記憶にははっきりとはのこっていないが。

 

とにかく、私にとって生きることは辛いことであり、それを楽しむ人間のその心が私は理解できなかった。そういうものなんだろう、自分より幸せで親から虐待なんてされてないんだろう、と私は思っていた。

 

私は、自分が生きるという事に関しては、ずっと、虚無的なものを思っていた。ずっと家でずっと親の言葉を聞き続けている私にとって、平和でゲームができればそれで十分だった。しかし満足なわけはない。私はずっと、一緒に遊んでくれる存在が欲しかった。

 

私は一人は平気だった。親と居るより一人で居る方が平和であるからだ。しかし寂しさは常にあった。平和でゲームができればそれで十分、それが自分の過ごしている世界の最高、だったけれど、それよりももっと上のものを絶えず求めていた。しかしそれが手に入ることは無い。だから私の人生は幼い頃から、てきとうに満足しててきとうに生きるものでしかなかった。

 

私は早い段階から冷めていた。精神的な病を患わなかったのは、自分も含めて、全てに対して冷めていたからだ。その証拠に私にリアルの記憶はない。小学生どころか中学高校相当の年齢の事も基本は覚えていない。まあ同じだからいちいち個別に覚えておく必要はないのだが。私が覚えている記憶は最低限の記録だけである。

 

私の人生は虚無だし、私の生に対する考えもまた虚無だ。私の世界には、私を愛する者は一人もいないしそもそもそんなものは存在しない。

 

私の苦痛を受け止め、辛かったねと言う存在も勿論いない。私がSNS、あるいはリアルの対人関係で、そういう存在を強く求めるのはそういう理由なわけだ。

 

私にとって私の世界に存在する人間は私を貶し嘲笑う、暴言暴力を振るう、その一種類の人間だけである。そいつらはいつも明るい、機嫌のいい時は笑い私に話しかけてくる。そして機嫌が悪くなれば暴言である。私が辛い苦しいことを話せば、大したこと無いだのなんだの笑って貶してくる。

 

私が明るい人間を嫌うのは、私の中で、明るい人間=親と同種、となってしまうためだ。私にとって明るく楽しそうにしている人間はみな親と同じで私を否定し踏みにじる者である。

 

私にとって私に明るくしてこない人間だけが、まず第一段階のフィルターを通過してくる。こいつは親と別種の人間である可能性がある、となるのだ。

 

私が人の悲痛な話や悩みを聞くのが好きなのは、人の助けになりたいとか悩みを聞いて楽にしてあげたいというのもあるが、ぶっちゃけそのフィルター関係の理由の方が大きい。

 

私は自然に話せば自らの苦痛にまみれた体験を話してしまう。私の心に満ちるのは負の感情であり、自らの負の感情が伴うそれらこそが、私の中にある通常のものなのだ。

 

そういうものをごく自然に話すシチュエーションの一つとして、悩みを聞くというやり方を取っているのだと思う。相手の悩みを聞きながら自分の負の感情もまあ吐き出せて自分の悩みも話せる、しかも常に、親と違う種の人間だと思いながら話せる。私にとってはこれこそ癒しなのだ。己の傷が癒えていく。

 

そう。私は明るい人間の様子が嫌いだ。親と同じだと認識してしまうため、話しているだけで、虚しく悲しくなり酷いときは傷が広がる。

 

私は人の悲痛な面を受け止めるのが大好きだ。他の人と違いそれで自分が暗くなることは無い。暗い話をしているが私にとってはそれが通常の状態である。暗い話をしながら実は私は絶えず元気になれるのである。

 

こういう人を私は他に見たことが無い。そういう意味でも私は特殊な人間であり、通常の人間と当たり前の物を一致させられない時点で、私は人間では無いとも言える。

 

今現在、私は再び、世に人に絶望している。悲痛なものが溢れていると予想したところで、他のところと変わらず明るい楽しいものが溢れているからだ。

 

…私は世界に、人に、必要とされることは無いのだと改めて思っている。自らが励ました人達も明るいときがあったからである。私にそんなものは無い。寄越せ、一部でも。ああ奪い取りたいとも奪い取れるなら!

 

…この世に私が励まさなければならない人間などいないのだ。

 

ちなみに私は励まされたいとは思わない。私が人に求めるのは励ましではなく、己が苦痛、嘆きの肯定である、共感であり、受容だからだ。

 

まずそこからである。それを私と関わる多くの人は勘違いしたのだと思う。だから色々な人を切ってきた。こいつは明るいだけで私の事など欠片もわかっていないこんなやつを励ましたところで何の意味もない、という感じに。

 

私は苦しみ喘ぎながら生きてきた。そこを理解し、その傷を癒すことを考えないと、私にとっては意味が無い。

 

明るい人間は必要ない。それなら、底抜けに暗い人間と暗いものを、負の感情を伴ったものを語らうほうがましである。