孤独な心

家庭内での虐待の経験、身体障害、の両方を持つ人のブログ

AIと人間

さて、連続の更新である。

 

AIに関してだー。遊戯王のアニメではAIと人間の関わり方がテーマになっている。なんかすごいな。

 

というわけで、私なりのそれについての考えを書いてみようと思う。

 

まず、AIがどのような存在になっていくかだが、最終的には人間とほぼ変わらぬ人格を有するところまで行くと思う。というか、今のAIの研究というのはそれを目標にしているはずだ。学習していくペットロボットみたいなのは沢山あるだろう。

 

まあそんなわけで、AIは人間と変わらぬ人格を手に入れるというのが私の意見である。さて、そうなったときAIと人間の関わりとはどうなっていくのか。

 

まあぶっちゃけ遊戯王vrainsみたいな感じである。まああれで出てくるAIは肉体に当たるものはもっていないのだが、なんかまあ一応テレビを勝手に見て楽しんでたりするので、まあそういう感じになるんだろう。

 

人間と同じような人格を持ったAIがどういう性格を持つのかだが、まあ概ね人間と変わらぬ感じにはなるんだろうと思う。が、相違点として、人間が持つ人格、性格ほどレパートリーは無いのではないか?と思う。

 

理由についてだが、ある程度の論理的思考能力が担保されるためである。そして、物理的な現象などに対する知識も担保されるためである。こっちはまあ、事前にそういう知識がインプットされている、あるいはインターネットに繋いでいつでも調べられるという機能がついていなければならないが。

 

なぜ、論理的思考能力や物理的な現象などに対する知識が担保されていたら、人間と比べ人格のレパートリーが少なくなるのか。ぶっちゃけて言おう。論理的思考能力や物理的な現象などに対する知識が担保されていない人間が居るからである。要は偏った思考や知識を持つ個体が居なくなるので、その分人格のレパートリーは少なくなるということである。

 

人間の思考能力や知識、頭脳というのは個体によって質にばらつきがある。ありまくる。ありまくるのだ。

 

人間の中には、自分が好む知識好まない知識というのを持っている者もいる。そういう人間は、自分が知りたいものしか知識として入れない。知りたくないものはどんなに根拠がしっかりしていて正しい知識であっても入れないのだ。あまつさえ、これは間違いだとか誰々何々の陰謀だとか言い始める者も居る。そしてそういう人間は自分が知りたいものであるなら、根拠がない迷信っぽいものであっても正しいこととして、自分の中に知識として入れるのだ。

 

人間の中には、こういう情けない者もいる。しかしそういう人間は往々にして、自らは物知りで論理的に物事を理解していると思っている。全然論理的に解釈していないのにである。

 

で、まあそういう人間は性格も大体おかしい。そりゃ事実を嘘として、嘘を事実として受け止めていたらおかしくもなる。性格がおかしいからそういう変な認識の仕方をしているのか、変な認識の仕方をするから性格がおかしくなるのかどっちなのかはわからないが。

 

AIだとこういう変な個体は出てこない。一定程度の論理的思考能力、自分で自分の思考を客観的に分析できる能力が備わるためだ。というわけで、人格のレパートリーは人間よりも少なくなる。質がある程度担保された個体ばかりになったらそうなる。

 

さて、よくあるSF映画でAIが人間に反逆するとかいうのに関してだが、そりゃ人間に近い人格を得たらそういう個体も出てくるだろうとは思う。しかしそれはあくまでも個体単位であり、全てがそうだというわけではないのだ。

 

人間と同じである。人間だって人間を支配するのが好きな個体も居るだろう。独裁者が居て、独裁者のせいでかなりの人間が虐殺されたなんて話はけっこうあるはずだ。AIが人間を支配すると恐れる人間に、こういう例を出しどう思うか聞いてみたい。人間が人間を支配してきた歴史はけっこう長いし、それで多くの人間が酷い目にあった事件もあるが、あなたはその歴史や事件を恐ろしいものだと思うのか、と。

 

AIは怖がって人間は怖がらない。理解不能である。結局そういう人間の頭にあるのは、未知のものへの恐怖だけである。論理的なものは一切ない。ただの本能的なものである。

 

人間を支配しようとするAIは必ず生まれるだろう。しかしそれと同時に、人間を守り共に生きようとするAIもまた生まれるのだ。

 

遊戯王vrainsではそれが一つのテーマとなっている。人類の未来のためと作られたAIたちが、人間のために戦う個体と人間を滅ぼすために戦う個体に分かれて戦うのだ。遊戯王のカードゲームでね。

 

まあとにかく、そういうことだ。人間も人間を支配してきた。今も独裁者が支配する国がある。民主主義というものが根付かず紛争に明け暮れている国がある。それはまあ一種の地獄である。世紀末である。AIが人間を支配して世紀末になると恐れている人は、その今ある世紀末を見てみるといい。人間は人間に人権を無視した管理はしない、なんていうのは嘘っぱちである。

 

AIVS人間という映画を見ていて思う。なぜAIも、そして人間も一枚岩だと思うのか。あれはだから所詮単純単調な制作物に過ぎない。現実を見てみよう。人間は一枚岩かな?人間同士で争って、土地を、自然を壊しまくってるではないか。

 

AIVS人間というものを考える人間の頭の中にあるのは、人間は劣った種であるという劣等感と、劣ったものは支配されても仕方がないという意識である。

 

人間というものに関して、自然破壊をしているからとか、まあそんな具合で、後ろめたいものがあるわけだ。そして劣ったものは優れたものに支配されるのが自然であるという意識があるわけだ、でなければ人間がAIに支配されるなんて発想は出てこない。

 

まあぶっちゃけ、そういう発想をする時点で、劣った存在なのだなと思う。支配される人間を考えるということは、自分もまた支配されるその中に居るわけだから。そんな想像してたら、AIに支配されてもしょうがないんじゃないか?

 

私は思う。もし仮にAIが発達し、本当に人間を、人類の文明を支配するようになったら、それはもう仕方ないと。それはAIの責任では無い。人間の、人類の責任である。AIが個々の違いを優先せず、人間を支配するべきという意見が多数を占めるほどにまでなってしまったのだとしたら、それはもう、人間の文明が地球を滅ぼすのは時間の問題となった時だろうと思う。

 

人間は地球に生きる。一種の生命体に過ぎない。地球が滅べば人間、人類は滅ぶのだ。火星に移住だなんだと言っているが、火星で同じ生活ができると思うかい?もし出来るほど様々なものが発達したなら、地球を出ずに済むはずである。

 

私は、火星に住むだのなんだの、そういうものを見て、ただの逃避だな、と思っている。人間は地球と共に生き共に滅ぶしかないのだ。勿論、地球が滅ぶその時まで人間が滅ばなかったとすれば、人間の内の何パーセントかは他の星に移住し種を繋いでいくだろう。しかしそれでも何パーセントかである。大半は地球と共に滅ばざるを得ないと思っている。

 

人間の中には、論理的思考能力や物理的な現象などに対する知識が担保されていない者が居る、というのは上で述べた。人間は頭に蓄えられる知識量…データ容量、そしてデータの処理能力、そのいずれにおいてもAIには敵わない。

 

論理的思考能力というのは、ある程度の基礎的な知識や思考力があって初めて身につくものである。下地が要るのだ。そして、多くのデータを多く処理できる方が論理的思考能力は高くなると思っている。勿論、多くのデータを客観的に論理的に処理をしなければならないという条件は付くが。

 

結論をぱっぱと言ってしまうが、人間はAIに勝てない。未来を見る能力においてもだ。人間が見る世界の未来、AIが見る世界の未来、どちらが実際の未来に近いか、それはAIである。

 

人間というのは所詮肉体に縛られるものでしかない。時間と共に朽ち果てていく肉体に、栄養や水分を摂取しなければ朽ち果てていく肉体にである。だからこそ人間というのは、個という概念から脱却できない。個という概念とは、まあ自分自身のこと、という感じに受け止めてもらえればオッケーである。

 

自分が飢えて死にそうなのに、目の前にある食べ物を誰かに分け与えようとするだろうか。自分が病気で死にそうなのに、誰かを助けたいと思うだろうか。

 

人間というのはそういうものである。というか生き物全部がそうだ。自分が死んだら終わりである。どんなに立派な志を持っていても、身体が衰えて寝たきりになったら段々思考も弱っていくだろう。

 

人間が肉体を持つ限り、肉体の寿命には逆らえない。人間の思考や判断力は己の肉体に、肉体の調子に引っ張られてしまうものであるというのは忘れてはならない。そういう意味で人間は個という概念から脱却できないと述べた。

 

人間とは不便である。絶えず食べなければいけない飲まなければいけない。常に肉体に縛られ続ける。人間がそういう接種を我慢できる時間は短い。それを考えなければいけない。そんな人間が、自身の寿命を超えた時間軸で物事を考えることが出来るだろうか。

 

実際の未来に近いのはAIが見る未来だと述べたのは、そういう人間の性質を踏まえてのことだ。

 

人間が種として地球の未来を考えるなど不可能だ。一部の人間が環境だなんだと言ったところで、衛生環境も整ってない貧困の国家、地域で生きる人間には地球の未来などどうでもいい。彼らが考える大事な事は今日明日の自分の生活である。それはしょうがない。彼らに罪はない。一切ない。

 

まあそんなわけで(若干疲れてきた)人間がAIに支配されるならそれまでよと思っている。しかし逆に言えば地球が滅ぶぞとならない限りはAIによる人間の支配は起こらないだろう。支配する意味が無いからである。

 

不要な支配は憎悪を生み、憎悪は対立を生み争いを生むのだ。そんな事はちょっと考えればわかるはずである。だからAIがそれぞれの考えに目を瞑り人間を支配するというのは普通は起こらない。

 

まあAIはいつか人間と変わらなくなっていくだろう。AIが居て人間がいる。地球を生きる生命体、種に、AIという、肉体持ってないけど他は人間みたいな生き物が追加されるだけである。

 

人間は人間の文明や社会を人間によって点検してもらわなければいけない。同じ種なんだから、客観性が保証されるかといったら少し怪しいと私は思う。その点検にAIが加われば、客観性の保証はさらに高まるだろう。

 

人間は完璧で非の打ち所がない生物ではない。ぶっちゃけただの動物だ。犬や猫などと大して変わらないのである。人間が種として他の動物を超越した存在などと考えるのは間違っている。しかしそのような考えが出てくる理由の一つには、人間の頭脳が他の生物よりも優れているから、というのがあると私は思う。その考えを打ち破るのがAIである。

 

AIが人間と変わらないようになって、そのような驕った人間の驕った考えは、ようやく消えるのだ。

 

 

 

親の境遇は書かない

突然だが、私は自分の親の育ってきた境遇などをかなり理解していると思う。ずっと家の中に居て、ずっと親の話を聞いてきたからである。

 

私の親は、まあ自分の過去やらなんやらをよく話す人達だ。特に母親の方は同じ話を何度もする。そりゃ本人はまだ過去を断ち切れてないんだから当然である。自分が小さかった時の話、10代の時の話、家では何があったか学校で何をされたか、もう何度も言いまくる。しつこすぎて嫌になる。私は一日中家にずっといたからずっと聞いてたわけである。そしてまあ、てきとうに返事はする。辛い境遇だねみたいなことも言ったりする。

 

ぶっちゃけ私は母親のカウンセリングをやってきた。母親の気持ちの一番の理解者はこの私である。もっと大事にして欲しいものである。」

 

父親は、まあ母親の話を聞いても、鈍感なのでそんなにいろいろ思う事はないし考える事もたぶんない。ここ数年は母親の母親と色々もめたせいで、ようやく母親の辛さがわかってきたようではあるが。

 

父親はというと、まああんまりしつこく自分の境遇は話さない。父親はまあ、母親と比べれば前を見る人である。前しか見てない。過去は見てない。まあ母親の方と比べて家族からの支配が少なく割と自由に生きれたというのは大きいだろうが。

 

私の話に戻る。まあ私は親の話をよく聞いてきたわけだ。よくわかってもいるわけだ。しかしここで書く気はない。そのうち書くかもしれないが、少なくとも今書く気はない。なぜか。

 

親を色々な事情のある人間と見たくないからである。見る気が無いし見たくもないからだ。私にとって親は虐待加害者、それだけである。

 

虐待の加害者となる者…それだけでなく、犯罪者となる者は、その者自身が恵まれた環境に育っていない、けっこう不幸な境遇で育ってきたというのはままある話だ。

 

というか、不幸な境遇で育ってきたから、自身も人から不当な扱いを受け、怒りや憎しみを向けられてきたからこそ、自分も誰かを傷つけるのだ。

 

自分の中にため込まれた怒り、憎しみ、荒れ狂う気持ち、荒んだ気持ち、そういうものがあるから、他人を傷つける。逆にそういうものが無ければ他人を傷つけたりはあまりしないだろう。

 

…というわけで、虐待加害者にしても虐待被害者としての面がある場合は多いのだ。私の親もそうである。両親ともにそうである。母親は完全にそうである。今もそれなりにある虐待児のケースそのものである。詳しくは書かないが。

 

親の境遇を書かない理由。それは、自分も、そして親の境遇を見た他人にも、私の親に対して、この人達は事情があったんだ、かわいそうな人なんだと思ってほしくないからである。

 

親にも事情はあった。それはそうだ。しかしだからといって私に振るった数々の暴言暴力が許されるはずはないし許されていいわけはない。

 

私の人生は台無しになった。親の虐待のせいで私の心は壊れ、普通の人間として考えられず生きることもできなくなってしまった。もう普通の人間となることはできない。私の子供時代はもう戻っては来ない。以前にも書いたが。

 

そう、戻らないのだ。私の失ったものが戻ってくる事はない。得られなかったものが得られるようになることは無い。はっきり言おう。私の親の方が人間としてましな人生を生き、普通の人間としてまあまあ幸せな思いもしてきたのだ。同じ年数で考えたとき、明らかに私の親の方が私よりも幸福な人生を生きてきている。親よりも私の方がはるかに不幸である。そして親が受けた虐待よりも私が受けた虐待の方が程度は酷い。それは確実である。やつらは自分の親よりも酷い虐待加害者へとなり果てたのだ。

 

そして、少しでも私の親に理解を示すということはその分だけ、今のこの私に理解を示さないということでもある。私の虐待体験は私にしかわからないし、いくらそれを書いても、どこまで想像できるかは見た人次第だし、そもそもその実際の光景を正しく想像できる人間などほとんどいないだろう。

 

そして、仮に実際の光景を正しく想像できたとしても、私の気持ちを正しく理解するのは更に難しくなる。

 

私が受けた苦しみ、悲しみは相当なものだ。人間としての希望を抱く気持ち、夢を持つ気持ちが完全に消え失せるほどなのだから。

 

そう、私は、私の親に同情してほしくはない。誰であっても親に同情することは許さない。そうした瞬間に敵確定である。

 

それに、罪人は罪人である。育ってきた境遇がどれだけ不幸だろうと、どれだけひどい目に遭っていようと、犯罪を犯した者は罰せられ、罪を償わなければならない。外で、他人に、自分の子供と同じような事をしたら逮捕である。しかし、家庭で、子供以外は誰も見て無くて、そして子供にどんな暴言暴力を振るっても逮捕されず犯罪者にはならない。おかしいだろう。

 

私は親を、犯罪者としか見ていない。罰せられるべき罪人としてしか見ていない。それ以外のものは不要である。親にもかわいそうなところはあった、しかしかわいそうだからって、罪を犯してもいいのだろうか。そんな事はないだろう。

 

罪人は罪人である。私はだから、悪人には一切の容赦が無い。自分に対してもそうである。もし自分が自分の子供を虐待したら、私は殺されるべき人間になったと、そう思う。

 

まあそんな感じで、親の境遇を書く気はないのである。

みんなと同じになりたいとは

久しぶりの更新だ。最近は書くネタがあまり思いつかない。私は結局ずっと同じ日々を何年にも渡り続けているので、日々思う事はあまり変わらない。幼い頃から同じことを思い続けてきたわけだが、その種類は、レパートリーは、きっと他の人と比べて著しく少ない。だから、書くネタはすぐに無くなってしまうのかもしれないと思っている。

 

さて、久しぶりの更新の話題は、みんなと同じになりたいとは、だ。虐待被害者の中には、そういうことで悩んでいる人も結構いる。かく言う私も悩んでいた時期はあった。

 

みんなと同じになりたいというのは、結局、普通の人生を歩んで普通の日々を送りたかったという思いそのものだ。普通の人生を歩んで普通の日々を送れば、多数を占めるであろう普通の人達と自然と同じようになるのだから。

 

逆に考えて、普通じゃ無い人生を歩んで、普通じゃ無い日々を送れば、普通の人間にはなれない。普通の人が体験することを体験できず、普通の人が体験しないものを体験して、人生を歩んでしまえば、普通になれるはずがない。

 

私はだから、割り切った。割り切るしかないだろう。そして何より私に責任は無いのだ。一切ない。私が悪いのではなく、家庭が、親が悪いのだ、私の世界を設定したのは家庭であり親なのだから。

 

そんなわけで、私は、みんなと同じになりたいと強く思う事はなかった。まあ身体障害者であったというのもあるだろう。

 

…虐待被害者がみんなと同じになれないのは、その本人の責任では無い。けれど中には、自分の責任だとして、頑張ってみんなと同じになろうとする人もいる。

 

けれどまあ、だいたいなれない。そりゃそうだ。虐待されるという恐怖が常にある、そんなもの普通の人は一切感じないのだから。そういう世界に生きていないのだから。

 

まあそういう人がみんなと同じになるには、自分の虐待体験などの普通の人が体験しないであろうものに関する記憶を抹消するしかない。しかしそれはできない。だから普通になれない。

 

それに、みんなと同じとはなんなのだろう。みんなとは誰だろう。学校に居る人達だろうか。笑って騒いで楽しそうにしている人達の事を指しているのだろうか。

 

でも、学校に居る人達もみんながみんなそうでは無い。おとなしく本を読むのが好きな人もいるし、周りに合わせなきゃ色々やばいから、表面的に笑って騒いで楽しそうにしている人もいるだろう。

 

よくよく見れば、よくよく考えれば、みんな同じではないと気づくはずだ。ただ、笑って騒いで楽しそうにしている人達が目立つだけである。目立つから印象に残る、印象に残るから全体がそうであると錯覚する。そしてそうでない部分は印象に残らなくなる。ただそれだけである。

 

それになにより。表面的な言動は同じであっても、何を思って何を感じているかは違う。同じように行動しているからといって、同じことを思って考えているわけでは無い。

 

みんなと同じになりたいと思っている人は結局、表面的なものを真似たいと言っているにすぎないのではないかと私は思う。表面的なものだけを真似て、それでどうだというのだろうか。

 

みんなと同じになりたいというのは、結局、普通の人生を歩んで普通の日々を送りたかったという思いそのものだと書いたが、それなら、みんなと同じになりたいと思わず、素直に、普通の人生を歩んで普通の日々を送りたかったと思えばいいのだ。それだけ思えばいいのだ。

 

普通の人生を歩んで普通の日々を送りたかったと思えば、自然とその原因が、自らの環境、境遇にあったと、行きつく事ができる。しかし、みんなと同じになりたいと思えば、みんなと同じになれない自分が悪いという風に思えてしまう。そうなれば自らの環境や境遇に目が行かなくなる。そして、自分が悪いと思ってしまえばもう終わりである。その人はもうずっと苦しみから解放されずずっと自分を責め続けることになる。

 

この記事で一番言いたかったのはそれである。どんな人間でも、頻繁に親から暴言暴力を振るわれれば人間性は歪んでいく。それで歪まない人間などほとんどいないだろう。どんな人間でも、ということは、その人間が生まれ持ったものなどあまり関係が無いということである。

 

人間は環境で、境遇で作られる。毎日体験、経験する何か、そしていつも見る世界が、重要なのだ。それで人間性は作られていく。世界を学び、他者を学んでいく。逆にそこからでしか学べない。人間とは、そういうものであると私は思う。

リアル

今日はなんか寒いな。

 

さて、私にとってのリアルは非常に印象の薄いものだ。そりゃ私のリアルはほぼ家庭のみだったわけで、そりゃ薄いのは当然なのだが、学校へ行き始めてからも薄いままだった。

 

学校へ行き出す前、私のリアルは完全に家だけかといえばそうでもなかった。リハビリと称して私は親の食料品などの買い物に連れていかれていたためだ。今となっては昔の話ではあるが。

 

そのため、人自体は多く見ていた。ショッピングセンター、スーパーなどに行けば人はいっぱいいる。当然である。話し声もけっこう聞こえる。当たり前だ。

 

というわけで、私はそういう、人が多く話し声がいっぱい聞こえる場所、には慣れていた。

 

まあそんな感じで、学校に行き始めたとしても、私の中であまり大きな驚きはなかった。人がいっぱいいて話し声が多く聞こえるという意味では、ショッピングセンター等とあんまり変わらないためである。

 

私の中で、人が多く居ていっぱい話し声が聞こえる場所というのは、人を一人一人意識しない場所、という風になっていた。ショッピングセンターなどのせいで。というわけで、学校に行き始めても、人が多く居ていっぱい話し声が聞こえる場所は人を一人一人意識しない場所、というのは変わらなかったわけだ。

 

学生がグループを組み授業を進めるというのはあった。しかし、そのグループというのは、何週間か経てば変わるものが多かった。授業の最初から最後まで、というのは基本無かった。というわけで、私は、グループでの授業というのをやっても、一人一人意識することは無かった。たまたま同じグループという名目になった人、というだけである。

 

私はリアルでもけっこう喋る。無口では無い。自分の身を守るため基本は必要最低限しか話さない。しかし、必要があればどんどん喋る。というわけで、グループでの授業の時はまあまあ喋る。普通に他の学生とコミュニケーションは取れる。

 

しかしそれでも一人一人意識しているわけでは無い。授業のため、単位のため、やっているに過ぎない。

 

というわけで私はリアルで友人というものはできないし、リアルへの印象も薄いままなのである。

 

私にとって、自分の境遇、悩み苦しみをダイレクトに話せる人間だけが、自分が意識する他人である。そうでない他人はその他大勢の人とひとまとめで括ってあまり区別はしていない。

 

ネットで自分の境遇などを話しているフォロワーは、一応一人一人区別している。というか相手の人間性から境遇まで、けっこう記憶している。一度記憶したらなかなか忘れない。自分が知る限りのものではあるが、個別のデータとしてしっかり頭には入っている。相手と別れても私の中にはデータが残る。残ったままである。消せない。消えないのだ。

 

私はだから人の事をどうでもいいと思っているわけでは無い。一度意識し始めたらかなり残っていく方だと思っている。

 

しかしそれには条件がある。私の事をある程度わかっているかどうかという条件である。リアルの人は私の事を知らない。ただただ身体障害者というだけである。だから私はそういう相手を意識しないのだ。みんな同じだからだ。

 

そういうわけで私にとってのリアルの印象は薄いままである。

 

 

 

年を取る

最近、年を取ったと感じることが増えた。1年前まではもう少し元気だった。自分は誰かと仲良くなれるんだと思ってたし、寂しさや悲しみを抱えた人を少しでも支えたいと思っていたし、支えられるとも思っていた。

 

しかし今はそんな思いはもう無い。自分は誰とも繋がれないんだとか異質な人間なんだとか、そんな気持ちが大きくなっている。

 

人間、年には逆らえない、老化には勝てないのだと思う。ずっと家だけで、ただ親だけを見て育ってきた私にとって、ネットで人と関わりだした7,8年間は、それまで止まっていた成長を一気に進めるものだったと思う。しかし私は一気に成長しすぎたのかもしれない。

 

私は元から、まああまり精神的には若くなかった。以前の記事でも書いたが、私の身体は生まれながらにして老人並みだったためだ。できない事が多かった。できなくても仕方ないのだと思わざるを得なかった。お前は何もできない足手まといだと言われても否定することはできなかった。

 

私はだから、12,3歳の時点で、車いすに乗っている老人のような、そんな感じになっていたと思う。

 

そう、もとから私の中には子供としての部分よりも老人としての部分の方が大きかった。その年齢の頃はもうすでに今のように、自分はこのまま一人で死んでいくんだろうと思っていただろうし、それは運命だと思っていただろう。

 

私はもう人生の半分を、今とあまり変わらぬ思考で、精神状態で生きてきた。12,3歳の頃老人だったなら、今の年齢の私は何なのか。最近思う、自分の精神はもう段々衰弱してきているのだと。

 

元々SNSを、私は、冥途の土産のように思ってやっていた。友達もいないずっと孤独だった私が、死ぬ前に見る、最後の夢。そんな風に思って人と出会い会話をしていた。もうその夢は過ぎ去ったのだと、今は思う。

 

私はもう死ぬべきなのだ。もう人生を終わらせるべきなのだ。冥途の土産はもうこれ以上増えないだろう。

 

今でこそ何の意味もなかったと言っているが、意味があったと、嬉しいと、人と繋がれたと、通じ合えたと、思った事はある。思った時期はある。…今は潰えて、消えてしまったが。

 

私はその時に、そう思った時に死ぬべきだったのだ。

 

今私の前にその良かったものは何も無い。振り返って、あの時あった良いものを見るだけである。そして私は涙を流す。あの時はよかった、あの時は嬉しかった、と。私の歩みはもう何も生まない。もう何も生まない、心の中にあるのは、まだ幸せだと思えたときの、その残骸だけである。今はもう無い。今は何も無い。もう私の未来は無い。過去を見てひたすら涙を流すのみである。

 

子供の頃、私に大切な人が出来ると思った事はなかった。そもそも人を大切だと思う心が私にはなかった。

 

SNSを始め、確かに私には誰かを大切に思う心が芽生えたのだ。そして通じ合えた時もあった。それだけを考えれば良かったはずなのだ。しかし今そうは思えない。

 

私はどうやら失ったという悲しみが強く残る人間らしい。得たものが今も得たままで無いと喜べない人間らしい。失えば悲しみだけが残る人間らしい。

 

だから今の私の心にあるのは失った悲しみだけである。疎遠になった人を見て悲しいと思う心だけがある。

 

人は変わる。変わっていくのだ。しかし私は変わらない。変わりようがない。過ぎ去った人達を見て、離れてしまった人達を見て。いつの間にか遠くなってしまった人達を見て。私は涙を流すだけである。そして思うのだ。ああ、出会わなければよかったんだと。

 

私は年を取った。年を取り過ぎてしまった。もっと早くに自ら命を、断つべきだったのだ。

欲望

私は欲望がおそらく人よりは無いと思う。一つ前の記事で書いたように、私は実生活方面に知識に著しく疎い。そのため、現実で何かを自分がするという想像自体ができない。

 

何かをしたい、やりたいと強く思う事があまり無い。リアルで考えれば、シャドウバースやポケモンなどのゲームがしたい、とか、何か読みたいラノベがあったとして、それを読みたい、ぐらいのものである。あ、後はおいしいお菓子が食べたいとかだな。

 

人と話したいという欲望があるにはあるが、そもそも他の人と同じ話ができない。どこどこ行って、何々した、というような話があったとして、私はただただ、そうなんだーそうなんだーと言うだけである。

 

私が日々やっていることと言えばゲームをすることとアニメを見ることだけ。つまり、そういう話しかできないのだ。

 

政治経済系の番組を親がいつも見ているせいで(親が話していることはレベルが低いが)そういう系の話は得意である。しかしそんな話をみんな普段からしてるかといえば全然そんな事はない。みんなお堅い話は好まないのだ。しかし私は好む(え

 

というわけで、私の話は、私が知っているゲームとアニメの話だけになる。ぶっちゃけそれが私の日々の生活の全てである。

 

ふと思う。身体障害者で無ければもっと色々知って色々欲望が生まれたのかもしれないと。確実に生まれていただろう。しかしそんなことを思っても意味が無いのである。私は物心ついたときから既に身体障害者であった。生まれたときはそうじゃ無かっただの途中からなったかもしれないだの、そんな話もあるが私にとってはあまり関係が無い。物心ついたときからそうなのだから。

 

というわけで、私にとって身体障害者でない自分、とか、身体障害者じゃ無かった場合の人生とか、そんなものは考えても意味が無いしそもそも考えられない。

 

今のこの身体障害者である私は、別にどこかに行って何かをしたいとも思わないし、ぶっちゃけ食べ物もそこそこ変な味がしなければなんでもいいし(そんなわけで私はシンプルなものが割と好きである。素材の味を生かすというやつだ) まあ平和に生きれればいいやという感じである。

 

わかってくれる人、一緒に仲良く暮らす人は確かに欲しいが、私の世界にそういう人はいなかった、どこからそういうものを取ってきたかと言えばアニメである、自分が読んだ二次創作小説である。

 

というわけで、私にとって自分と仲良く暮らしてくれる存在でさえ空想の産物の域を出ないのだ。空想だと思っているから本気で欲しいとまでは思ってはいない。できなくても、まあ空想の産物だし実現しなくて当たり前だよね、で終わりである。というかぶっちゃけ私の場合全てそうである。自分の願いは欲しいものは自分の空想の産物だから実現しなくて当たり前だよね、で全て終わる。そりゃ現実を捨てるはずである。

 

私にとっての現実世界とは無である。そこに何かがあるわけでは無い。人と仲良くする想像をしても、それは想像だから現実では無い。だから実現させようとも思わない。そもそも実現させたいと思っても何もできないし方法もわからないから実現のさせようがない。

 

私はまあこんな感じで生きている。生きているのか!?と言いたくなるぐらいの感じで生きている。そりゃ生きても死んでも同じなわけだ。私は意識的には空想の中で生きている。自分にとって幸せな想像をして、ああ、幸せだなあと思って終わりである。小さな頃からそんな感じで生きてきた。

 

欲望とは実際に満たすものでは無い。想像の中で満たして、満たした気になって想像の中で喜ぶ。そうするとあら不思議、現実の自分もそれなりに嬉しくなってくる。私はそんな感じで生きてきた。

 

だから私にとって実際に現実で生きる場所なんてどこでもいい。空想で、想像で自分の心を満たしてきた私にとって、現実世界がどうなろうと、自分がどこにいようと、あまり関係は無いのだ。

何も知らない

久しぶりのブログ更新である。

 

さて、いきなりだが、私は何も知らない。生活に関するものを何も知らないのだ。まず、家事の知識が一切ない。炊事、洗濯、掃除などなど。家電機器の使い方も知らない。まあやってれば覚えるのかもしれないが。

 

更にお金に関してもまるで駄目である。クレジットカードを使ったことが無い。どういうものかは知っているが。更に、銀行に行きお金を下ろすという事も知らない。そもそも自分でお金を持って何かを買ったという経験がほぼない。昔実際のカードゲームをやっていたころ、カードパックを自分で買ったという事ぐらいである。一応タクシーへの支払いもやってはいるが。

 

そして、バスや電車も使ったことが無いので何も知らない。そもそも一人で出歩くことは無い。杖ついてたらいつこけてもおかしくないからね。どこか行きたいところがあるわけでもない。ぶっちゃけ車いすのほうがいいと思うんだけど、母親は、「車いすに慣れたら歩かなくなって歩けなくなる!」と言っているので、車いすを使う事も無い。旅行先で施設内で使うことぐらいである。

 

まあそんなわけで、私は自分が生きていく想像が全くできない。そもそも何をどうすればいいのかわからない。まあ一年分の生活費をもし渡されたとしても、私は何もできないだろう。まあそうなったら住んでる都道府県の福祉課とかに連絡して来てもらってなんとかするつもりだが。

 

私は一応大人だ。しかしただただ年だけ食っただけである。生活能力はそこら辺の小学生より劣るだろう。何も知らないできないという意味で幼稚園児並みかもしれない。

 

親は私に何かを教えることは無い。私が教えてほしいと言わないからだと言っているが、結局面倒なだけである。今住んでいる家は部屋は別だが、以前住んでいたマンションの一室には、そんな個別な部屋なんてものはなかった。そこで私は約20年生きていた。その間、親が私に何かを教えるという事はなかった。ただ、母親は、家事をやり、やり終わったら投資や語学に関する勉強をやっていただけである。

 

私は基本放置されてきた。というわけでなにも一般常識を知らないまま育ってきた。

 

まあなんというか、言い訳になるんだろうなと思う。今更子供みたいに扱われることは無い。できないお前が悪いと言われるだけだろうと思う。そんなわけで、私は生きる気が無い。もうどうでもいい。元々誰にも望まれず、自分さえも望まぬ命だ。私が生きても死んでも何も変わらないのである。自分も何も変わらないし誰かも何も変わらないだろう。

 

というわけで。私はいつか孤独死するんだろうなと思いながら、今日も同じ日々を無意味に生きる。